真言宗泉涌寺派(歴史)

総本山真言宗泉涌寺派「泉涌寺」について

平安時代初期に草創

当寺院の総本山である真言宗泉涌寺派「泉涌寺」は、平安時代の855年に左大臣・藤原緒嗣(ふじわら の おつぐ)が自らの山荘を寺としたという説や、空海がここに庵を結んで荒廃したものを藤原緒嗣が復興したという諸説がありますが、詳しい時期や事情については明らかではありません。しかし、平安時代初期につくられた前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したもの、と伝承されています。

平安時代初期に草創

泉涌寺は貞応3年(1224年)、後堀河天皇により皇室の祈願寺となり、仁治3年(1242年)正月には四条天皇の葬儀が執り行われました。その結果、後堀河天皇と四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれました。さらに南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀はすべて泉涌寺で実施。さらに江戸時代の歴代天皇・皇后の葬儀を一貫して執り行ったほか、その陵墓もすべて泉涌寺の境内にある「月輪陵」「後月輪陵」「後月輪東山陵」として築かれて祀られています。

枯れることのない泉が涌き出る地

泉涌寺という寺号の由来は、鎌倉時代、泉涌寺の開山とされる「月輪大師 俊芿(しゅんじょう)」が、鎌倉幕府の有力武将であった宇都宮信房からこの地を寄進され、宋の法式を取り入れた大伽藍を造営したときに、敷地内の一画から清水が湧き出たことにより「泉涌寺」としました。この泉は、今日も枯れることなく湧き出ているとのことです。